富への感覚
「初めから無い」ということは、それほど大きな損失ではありません。なぜなら、それが当人にとっては当たり前であり、慣れているからです。
しかし、「一度持ったものを失う」こと――つまり、富を得てからそれを失う経験――には、より深い痛みと喪失感が伴います。一度贅沢を知ってしまうと、そこから元の質素な生活へ戻るのは困難です。それは「当たり前だったものが崩れる」という強いストレスに直面するからです。
慣れがもたらす苦しみ
あなたは一度、豊かな生活をしてから貧困に陥った経験はあるでしょうか?あるいは、逆に、貧しい生活から豊かになった経験は?
もし同じ程度の「現在の貧しさ」であっても、前者のほうが遥かに辛く感じるかもしれません。人間は「慣れた状態が壊れること」に大きな苦しみを覚えるからです。
この点を理解している人は、たとえ富を持っていたとしても、それに依存しない生き方を選びます。なぜなら、富というものは「いつ無くなってもおかしくない」ものだからです。
身体に必要以上の贅沢を覚えさせなければ、万一富を失っても、精神的な損失は最小限に抑えられるでしょう。
富の使い道で分かれる成熟
さらに賢明な者は、不要な富を「ただ貯める」のではなく、それをどう活かすかを考えます。そして、真の智慧者であれば、余剰の富を「分け与える」という選択肢に気づくのです。
なぜなら、富を困っている人や貧しい人に与えることは、他人を助けると同時に、自らの徳を深める行為でもあるからです。
キリストと金持ちの青年
ここで思い起こすべきなのは、イエス・キリストと「金持ちの青年」の対話です。
ある日、ひとりの裕福な青年がイエスのもとにやって来て尋ねました。
「永遠の命を得るにはどうすればよいでしょうか?」
イエスは答えます。
「戒めを守りなさい」。
青年は「それはすでに守っています」と答えました。するとイエスは彼を見つめ、こう言います。
「あなたにまだ一つ欠けていることがある。行って、あなたの財産をすべて売り払い、貧しい人々に分け与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。そして私に従いなさい。」
しかし青年はその言葉を聞き、悲しみながら立ち去ります。彼は多くの財産を持っていたからです。
この話が示しているのは、「富に縛られる人間の姿」と、「それを手放す自由を得ることの難しさ」です。
イエスが示したかったのは、「戒律の遵守」よりも、富に対する視点の転換だったのではないかと私は思います。
成熟を決めるのは「所有」ではなく「扱い方」
真に豊かな人間とは、富そのものに価値を置くのではなく、富を通して何を成すかを知っている人のことです。つまり、自分が何を所有しているかではなく、「それをどう扱うか」が、人の成熟を決めるのです。
富は試練である
富は試練でもあります。
自らの手に余るものを得たとき、その扱い方によって、人は、心まで貧しくなることもあれば、本当の意味で豊かになることもあるのです。