競争そのものは否定しないが、競争主義には限界がある
私は競争という考え方を無くそうとは思いません。 競争によって成果が生まれるのは事実ですし、 それが人間の可能性を引き出す場面も多く見てきました。
ただし、競争の行き着く先が「生きることの困難さ」になってしまうのなら、その社会のあり方には疑問を感じざるを得ません。
競争に勝ったか負けたかで、生活の満足度や尊厳が大きく左右される。そんな仕組みが常態化している世界は、本当に健全なのでしょうか?
勝たなければならないという教育の違和感
「負けることは愚かである」「勝たなければ価値がない」このような価値観を子どもに教え込む必要がある社会は、やはりどこか歪んでいると思います。
競争はあってもよいのです。しかし、それは人生や生活そのものを左右するほどであってはならない。競争とは、あくまで自発性や向上心を促すための一手段であるべきです。
勝者総取りの世界では、誰もが不安定になる
今まで人類の多くは、「勝者が全てを手に入れ、敗者は何も得られない」という単純な構造から抜け出せずにきました。多くの人がそのシステムを「仕方のないこと」と受け入れてきたからです。
しかし、実はこの構造で最も危ういのは「強者」側に立つ者たちです。今は強者として振る舞えても、その行為の代償が必ず返ってくるからです。
これは精神論ではなく、私の考える世界の仕組みに基づいています。「与えたものは、いずれ自分に返ってくる」この単純な真理すら、人類はまだ本気で受け止めていないように思います。
富の偏在は意図されずして不調和をもたらす
我々は富が必要な社会を作っておきながら、その富をほんのわずかも得られない人がいる現状を、当然のように受け入れてきました。
本来、富はエネルギーの一種であり、それが大きく偏ると、必ずどこかでひずみが生じます。
得すぎた者がいれば、失う者が出る。このことを意識せずして、公平な社会の設計は成り立ちません。
これからの時代に必要な「調和」の思考
私たちがこれから選ぶべきは、「調和」の思想です。強者も弱者も、得る者も与える者も、互いに影響しあう存在であるという意識に立ち返るべきです。
全ては支え合っているのです。強者は弱者に支えられ、与える者は得る者によって支えられているのです。だから全ての存在に意味があるのです。
調和の思考は、最初から完璧に理解できる必要はありません。偏りすぎないよう心がける、というだけでも十分な一歩です。この小さな思考の変化こそが、やがて大きな現実の変化に繋がっていきます。
思考の変革が、世界を変える
何も変わらないように思える一人一人の意識の変化こそが、実は最も強く世界に作用するものです。
まずは「競争しなければならない」という刷り込みから、自分自身を少しずつ自由にしていきましょう。
調和のために何を選び、何を与えるか。その思考の積み重ねが、より生きやすい社会を作ると私は信じています。