分からないという立場から始める
まず最初に正直に書いておきます。
宇宙に設計者がいるのかどうか、私には分かりません。
世界が偶然の産物なのか、何らかの意図があるのか、それを断定できる立場にもありません。
私は全知全能ではないからです。
けれど、それでも人は考えます。
考えずにはいられない存在だからです。
そのとき大切なのは、分からないことを分からないままにしておく勇気ではないかと思うのです。
ニュートンの模型の話
こんな逸話があります。
ニュートンが精巧な太陽系の模型を持っていました。
それを見た人が「これは誰が作ったのですか」と尋ねる。
ニュートンは「誰も作っていない」と答えた。
当然、その人は納得しません。
これほど精巧なものが自然にできるはずがない、と。
そこでニュートンは問い返します。
「この模型に作り手を想定するのに、なぜ本物の宇宙にはそれを想定しないのか」と。
この話が事実かどうかは分かりません。
しかし、宇宙の秩序や精巧さを見て、そこに何らかの設計を感じるという直感は、多くの人にとって自然なものです。
しかし断定はできない
だからといって、宇宙に設計者がいると断言できるでしょうか。
逆に、いないと断言できるでしょうか。
どちらも、私にはできません。
模型は人工物だという経験を私たちは持っています。
しかし宇宙が「人工物」かどうかは、そもそも比較対象がありません。
類推はできますが、証明にはなりません。
だから私はこう言うしかないのです。
私には分からない。
無知の知という知性
本当の知性とは何でしょうか。
私は、分からないことを分からないとはっきり言えることだと考えています。
分かったふりをするのは簡単です。
断定すれば安心感も得られます。
しかしそれは、しばしば人の心を惑わせます。
まだ確かめようのないことを、あたかも確定した真理のように語る。
それは知性というより、未熟さに近いのではないでしょうか。
分からないと言えるとき、初めて謙虚さが生まれます。
自分の認知の限界を認めるからです。
不完全な存在として生きる
人間は不完全です。
見える範囲も、理解できる範囲も限られています。
それでも世界の中で考え、選び、歩いていきます。
もしかするとこの世界は、どこかゲームのようにも見える。
あるいは試されているようにも感じる。
しかし本当にそうなのかは分かりません。
ただ、私が見ている現実は今のところそう見えている、というだけです。
私は神ではありません。
だからこそ、分からないことを分からないまま抱えて生きる。
それが、私なりの現実そのものに対する姿勢です。