私は「正気になる方法」として祈りを選びました
私は精神世界や内面探究に関心を持ってきましたが、ある時期から、いわゆる瞑想や呼吸法を一切行わなくなりました。
理由は単純で、私にとっては危険だったからです。
これは精神論でも思想でもなく、体験に基づく判断です。特に統合失調症を抱えてからは、意識や自律神経、脳の働きに直接介入する行為そのものが、安静とは逆方向に働くことを何度も経験しました。
この記事は、誰かを導くためのものではありません。あくまで「私が壊れないために選んだ、極めて消極的な方法」について書くものです。
精神世界には「善意による危険」が存在します
精神世界や自己探究の分野では、「良かれと思って」勧められる技法が数多くあります。瞑想、呼吸法、イメージング、覚醒、悟り──どれも言葉自体は美しく、魅力的です。
しかし、ここには一つの大きな問題があります。それは人による向き不向きが、ほとんど考慮されていないという点です。
健常者にとっては安定をもたらす行為が、精神疾患を抱える人にとっては、意識の暴走、現実感の低下、不安や再発の引き金になることがあります。
善意であっても、無自覚であれば人を壊します。この現実は、もっと直視されるべきだと私は思っています。
私が瞑想と呼吸法をやめた理由
私がこれらをやめた理由は、「合わなかった」からではありません。構造的に危険だと判断したからです。
瞑想や呼吸法の多くは、
・注意を一点に集中させる
・呼吸や身体感覚を操作する
・意識状態を変化させる
といった特徴を持ちます。
これはつまり、脳や自律神経に直接手を入れる行為です。健常な状態であれば問題にならなくても、脆弱な状態では「自爆スイッチ」になり得ます。
私自身、体が受け付けなくなりました。その時点で、続ける理由はありませんでした。
それでも「何もしない」は難しい
一方で、何もしないでいることも簡単ではありません。不安な時、人は何か「効きそうなこと」を探します。
そこで私が残した、
ほぼ最後の選択肢が祈り
でした。
ただし、ここで言う祈りは、一般に想像されるものとは少し違います。
祈りの前提条件:宗教組織から距離を取る
まず、最も重要な前提があります。
特定の宗教組織・教義・指導者には依存しないこと。
組織化された瞬間に、祈りは安静ではなくなります。正解、不正解、上下関係、選民意識、従属構造が生まれるからです。
それは祈りではなく、精神操作に近いものになります。私はそこに足を踏み入れません。
もう一つの条件:他人に祈りを勧めない
もう一つ、明確に線を引いていることがあります。
自分以外の人に、祈りを勧めないこと。
精神状態は外から見えません。自分にとって安全だった行為が、他人にとって安全である保証はありません。
「自分はこれで助かった」という言葉は、ときに相手を追い詰める刃になります。
だから私は、祈りを完全に個人行為として扱っています。
超自然を信じなくても祈りは成立します
私の祈りは、奇跡を起こすためのものではありません。何かを引き寄せるためのものでもありません。
ただ、言葉を向けて終わります。集中しすぎず、変性意識を作らず、結果を期待しない。
心理的に言えば、
・意味づけ
・言語化
・最小限の安静
その程度の作用しか求めていません。
それで十分です。
祈りは「救済」ではありません
誤解のないように言っておきます。
祈りは治療法ではありません。
悟るための手段でもありません。
人生を好転させる魔法でもありません。
壊れないための、最後の退避行動です。
やらないこと、深入りしないこと、距離を取ること。それもまた、一つの知恵だと思っています。
おわりに
この記事は、誰かを導くためのものではありません。同じことを勧める意図もありません。
ただ、精神世界には「やらない勇気」も必要だということ。そして、静かに正気を保つ選択肢が存在するということ。
それだけが伝われば十分です。