言語の限界「語ることの不確実性」

言葉の不完全さ

自分の言いたいことを、確実に相手に伝えることはできるでしょうか?
私は、それはなかなか難しいことだと考えています。

なぜなら、言葉というのは、百人いれば百通りの受け取り方をされるものだからです。
言葉は、コミュニケーションのための完璧な道具ではありません

言葉は「本物」の代用品

言葉とは、本来の「思考」や「イメージ」の代用物です。
たとえば、「鳥」という言葉を考えてみてください。

今、あなたの頭に浮かんだのは何でしょう?
鳩、雀、カラス、それとも別の何かでしょうか?
あるいは、「鶏肉」が思い浮かんだ方もいるかもしれません。

では、「鳩」と限定すれば、もう少しイメージは絞られるでしょう。
ですが、それでもまだ曖昧です。
その鳩は大きいのか、小さいのか?
太っているのか、痩せているのか?
色は白いのか、灰色なのか?

私には、あなたが思い浮かべた「鳩」がどんなものか、正確には分かりません

このように、言葉は多くの情報を省略しているのです。
なぜなら、言葉は思考そのものではなく、記号やシンボルに過ぎないからです。

言葉にできないものの多さ

そして、もし「鳥」や「鳩」のように比較的イメージしやすいものでさえこれほどのズレがあるなら、
もっと抽象的で漠然とした内容を伝えるのは、なおさら困難です。

仮に、思考やイメージを正確に言葉にしようとしたなら、
たった一つの事象を説明するのにさえ、多大な労力が必要になるでしょう。
現実的には、それほど丁寧に説明していられません。
だからこそ、言葉は日常的にあやふやで不確かになりがちなのです。

智慧者は言葉を信用しない

このように考えるからこそ、智慧を持つ者は、言葉に多くを頼らないのです。
言葉が扱いにくく、不確かなものであることを、よく理解しているからです。

彼(彼女)は言葉を用いることはありますが、言葉そのものを信用していません
他人の言葉を鵜呑みにせず、同時に自分の言葉すら疑うのです。

ましてや、よく知らないことについて軽々しく語るのは、賢明とは言えません
本当に完成された人間は、余計なことを説かず、無闇に語らないのです。

言葉に頼るしかない私たち

……とすれば、こんなふうに文章を書いている私も、
愚か者も同然なのかもしれません。

しかし、それでも私は書きます。
今の私には、言葉以外に何かを伝える手段がないからです。

その結果、伝わるものの多くが不確かであったとしても、
不完全な道具を使うしかないのです。

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