前置き ― 個人的な未来観について
あくまで私個人の見解であり、今現在は多くの人が許容できる内容ではないかもしれません。
しかし、時代の変化を考えると避けては通れない問題でもあります。
ここでは「怠惰であっても生きていける未来社会」における、人間の本質について考察してみます。
AIと生産の再編 ― 仕事が奪われる現実
AIや自動化は新しい仕事を生み出す一方で、既存の多くの仕事を奪っていきます。
これは日本に限らず、世界的な潮流です。
この構造変化を前に「労働=生活の糧」という常識は根底から揺らぎつつあります。
怠惰でも生きられる社会の到来
やがては、怠惰であっても最低限の生活が保障される社会が訪れるでしょう。
ベーシックインカムや生活保護の拡張版のような制度が、それを可能にします。
ここで重要なのは、「怠惰を許すこと」が社会の弱体化ではなく、むしろ技術進歩に伴う必然だという点です。
ここで言う“怠惰”とは、無責任という意味ではなく、働けなくても生きられる状況を指しています
それでも人間は「与える」存在である
経済的に生きられるだけでは、人は満たされません。
人間の本質は「何かを与えること」にあります。
それは労働やお金に限らず、知恵を分け合うこと、芸術を表現すること、誰かを支えることなど、無数の形で現れます。
経済的保障と並行して、人間には「与える場」が必要なのです。
資金の維持と社会参画を切り分ける
従来の制度は「働く=資金確保と社会参画を同時に達成」という発想に縛られてきました。
しかし現実には、病気や適応の難しさから「どうしても働けない人」が存在します。
だからこそ、資金の維持(生活保護や最低保障)と、社会参画(ボランティアや地域活動、文化的役割)を分離して考える必要があるのです。
世間体を超えて
日本社会は「働かざる者食うべからず」や「生活保護は恥」といった価値観に強く縛られています。
しかし、これを超えなければ「見捨てられる人」が増え続けます。
最低限の生活を保障することは当然の権利であり、同時に「与える場」を制度的に用意することが未来社会の課題です。
結び ― 未来社会への問いかけ
怠惰でも生きていける社会は避けられない現実です。
それでも人間は何かを与えなくてはなりません。
あなたにとって「与える」とは何でしょうか?
未来の社会で生きるために、今から考えておくべき問いかもしれません。
そして忘れてはならないのは、与える形は人の数だけ存在するということです。
未来がどう変わろうとも、人間の本質は失われません。