死とは何かを考える、私の死生観と生命のモデル

生命のモデル

今日の記事は、ふとした気付きからヒントを得ました。

私は先日お風呂に入っていた時、ふと、なんとなく指先のしたたる水滴を見つめていました。指先から水が落ちると、浴槽に落ちて波紋となります。ただ、なんともないありふれた光景です。ですが、突然頭の中で閃きがよぎりました。水が落ちると、まるで水滴が無くなったように思える。だけど水滴は無くなっていない。水滴は判別できないが、それは浴槽の中でありつづける。
これって人間が死ぬ事とすごく似ているのではないか…と。

水滴は生命の象徴

私達の世界は人それぞれ独自の感覚に縛られています。私達は通常、他人の主観を知ることができません。これはそれぞれが分離された世界です。言うなれば、手にしたたる水滴一つ一つのようなものなのです。それは小さく、はっきりと一粒であることが分かります。ですが、その水滴が浴槽に落ちると分からなくなってしまいます。浴槽の中から落ちた一粒を確認することは困難です。
これが「死」とよく似ています。

生命の源と生命の親

我々が一粒一粒の水滴だとすると、浴槽の水とは何なのか?私はそれを無限の働きを持つ大いなる存在と考えています。人より遥かに大きな存在として存在し続けるもの。それは生命の親そのものとも言えます。

私達は遅かれ早かれ、いずれそこへ帰ることになる、と私は考えています。浴槽に落ちた水滴のように、私達は生命の源に溶けこむことになります。私達は個人個人は分からなくなってしまいます。しかし、存在が消えたわけではありません。生命の源そのものとなって存在し続けます。落ちた水滴が浴槽の中で存在し続けるように…。それは、ある種の「無」とも言えますが、存在が消失するわけではありません。

生命はまた姿を変える

そして、またいつか別の形で分離された生命になる時があるかもしれません。その時あなたはあなたであって、あなたでないかもしれません。
これが私の死生観です。

水は生命のモデル

水の働きは様々な事を教えてくれます。水の働きとは生命そのものの働きとよく似ています。それは、水がそのように創造されたからです。
これが生命のモデルなのです。

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