生かされていることに気づいたとき、幸福の位置が変わる

生かされているという感覚について

普通に生きている人にとって、「生かされている」という感覚は持ちづらいものかもしれません。しかし、常に破綻と隣り合わせであったり、深い不幸を経験したことがある人であれば、この感覚が分かるのではないでしょうか。

私は病によって、常に物理的にも精神的にもギリギリの状態で生かされています。それはある意味では、幸福なことだと感じています。

驕りが生まれないということ

なぜなら、自分だけの力で人生を切り開いたなどという驕りが生まれないからです。もし私が、人よりも強い立場や恵まれた状況にあったなら、弱い人間のことなど視野に入らなかったかもしれません。

それは本当は不幸なことだと、今になってしみじみ感じます。人より優れている、豊かである、恵まれている。それだけで人生の本当の意味を知ることができるとは、私には思えません。

影があるから光を知る

影があるからこそ光の存在を認識でき、不愉快さがあるからこそ安楽の意味を知ることができます。欲を満たして生まれるのは、結局さらなる欲望です。

これを達成すること自体は、一時的であればそれほど難しいことではありません。今までの自分に、少し負荷をかければよいだけだからです。

本当に困難なのは「足るを知る」こと

しかし、実はもっと遥かに困難なことがあります。
それは「足るを知る」ということです。

どれほど欲望を追求しても、これを達成するのは容易ではありません。欲望を満たせば、次の欲が生まれるだけで、終わりがないからです。

坂を昇り続ければ、いずれ雲に到達できると本気で信じている人は、決して少なくありません。そして、その思考を逆手に取って人を操ろうとする者も存在します。

幸福は上昇ではなく、観ることに近い

「生かされている」ということのありがたさを実感するのは、簡単なことではありません。しかし、それを感じられるようになって初めて、人は「足るを知る」という意味を理解できるのだと思います。

本当の幸福は、より高く昇ろうとする行為の先にはありません。それは努力や成長を否定する話ではなく、幸福の置き場所がそこではない、というだけの話です。

坂の上の雲を追わないという選択

本当の幸せとは、坂の上の雲を追いかけることではなく、青い空に雲が流れていくのを眺めながら、少し立ち止まることだと思います。

それは究極の贅沢であり、幸福の一つの姿です。幸福とは追いかけるほど疲弊するものだ、ということは、よく覚えておいた方がよいでしょう。

だから、本当に必要なもの以外は、できる限り手に入れようとしない。自分の幸福は、今この瞬間に自然にできることの中から実現していくものだと思います。

自分は本当に何を欲しているのか

だからこそ、自分が手に入れようとしているものを、改めて見直した方がよいのではないでしょうか。

自分は何を本当に欲しているのか。

今以上にお金が欲しいのでしょうか。
今以上に人から承認されたいのでしょうか。

私が信じている一つの観念

最後に一つだけ、
私が信じている観念を述べておきます。
与えるものはいずれどこかで自分に返ってくる。
私は本気でそう信じています。

だから、自分はすでに十分に持っていると思えるなら、その一部を周囲の人に分けておく。これが、不幸にならないための私の哲学の根幹です。

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