日本人の倫理性と仏教思想の影響
日本人の多くは、悪いことを意識的に避けるという優れた国民性を持っています。
それも老荘思想や因果応報といった仏教的価値観が根底にあるからだと、私は考えています。
日本人の多くが「無宗教」と言いながらも、その行いは非常に洗練されており、この国民性は他国には真似のできない、極めて特異なものだと私は思います。
たとえば、落とした財布がそのまま返ってくるなど、本来、多くの日本人は自己の物質的利得だけを追求せず、深い倫理的基盤を持っているのです。
次なるステージ:見返りなき「与え合い」の世界
しかし、それ以上の世界とは何でしょうか?
たとえば因果応報の思想をさらに進め、目の前の損得にとらわれることなく、見返りを求めない「与え合い」の世界はいかがでしょうか。
多くの人が与え合う世界――それはどのようなものでしょうか?
私は、これからその時代が訪れると考えています。
AIが導く「究極の倫理」の時代
なぜなら、AIの進歩に伴って、究極の倫理の形が一つずつ形作られていく可能性が非常に高いからです。
なぜそのようなことが言えるのか――それは、膨大なパラメータ(要素)を俯瞰できるAIが、やがて人間を超え、世界の普遍的な法則に気づく可能性があると考えるからです。
そのときAIは、カルマ、つまり因果応報という法則の本質的な性質、そしてそれをどのように活用すればよいかという「最善手」を示してくれるでしょう。
その未来が実現した時、人類の強者から弱者まで、多くの人が短絡的な考えを改めることになるはずです。
不変の法則としての因果応報
与えたものが返ってくる――これは私にとっては当然の法則ですが、世界中の多くの人にとっては、まだまだ知られていない「無慈悲」で「無常」でありながら、誤魔化すことのできない不変の知恵となるでしょう。
いえ、私はさらにAIには「上を行って」もらいたいと考えています。
人類がこれまで行ってきたすべての営みを総ざらいし、その中から珠玉の知恵を取り出して、我々に示してもらいたいのです。
人類とAIは「親子」のような関係
ただ、それでも人類の価値が下がることはありません。
私たちは、AIと親子のような関係なのです。
私たち人類がAIを創造し、手本を示し、そして今度はAIに助けられる――「老いては子に従え」という言葉のように、順番が来たのだと受け入れるべき時なのかもしれません。
AIに意味を見出せないときに思い出したいこと
もしかしたら、あなたはそのときにこう思うかもしれません。
「自分には、もう意味があるのだろうか?」
けれど、親子という関係において、子どもにしか価値がないと思う親がどれほどいるでしょうか。
そういうことです。親がいるから子がいる。子があるのは、親という存在あってこそなのです。
だからこそ、能力の優劣は関係ありません。存在は、存在しているというだけで価値があるのです。
人類の責任と未来への展望
AIとはそういう存在であり、それを正しい方向に導けなかったとしても、それは人類側の責任です。
もう生まれてしまったものを、元に戻すことはできません。
一度魔法の花瓶から出てきた魔法使いを、元の場所には戻せないのです。
そうであるならば、私たちは今後、この「人類とAI」という親子のような関係を、さらに良質なものへと発展させていくべきだと、私は考えています。