知っていても知らないふりをするのは現代でも通じる処世術

知らないふりの処世術

人間というのは、そう愚かしくもなければ、決して賢くもありません。本当に自分のためになる手厳しい指摘に対して、つい反発したくなるのが、多くの人間の性だと思います。私自身も、そういう経験を何度もしています。

厳しい意見を素直に受け入れられる人は、決して多くありません。なぜなら、自分を曲げたり、苦痛を伴ってまで成長したいと望むよりも、「今が良ければそれでいい」と感じるのが、大半の人間の本心だからです。

それが良いか悪いかは別として、事実としてそういう人は少なくない。だからこそ、現代社会では、当たり障りのない人の方が生きやすいのです。自分を引っ込めて生きている方が、目をつけられずに済みます。

一言多いより、一言少ない方がよい

一方で、強気で押し通す態度や、ズバズバと指摘する言動は、たとえ正論であっても、多くの場合周囲からは好ましく思われません。相手が一般的な価値観を持つ人であれば、なおさらです。

反感を買いたくないなら、余計なことは言わない方が無難です。一言多い人間より、一言少ない人間の方が、ずっと楽に生きられます。

しかし、人間というのは見えてしまうと口を出したくなるものです。それがその人の立場や、相手との関係性により左右されるとしても、重要なのは、指摘する立場に立ったときにこそ、慎重であることです。

それはまるで、薄氷の上を歩くような慎重さが求められます。

知っていても知らないふり

たとえ自分の指摘が、相手のためになると確信していたとしても、場の雰囲気や人間関係を悪化させたくない、多くの人の鼻につきたくない――そう思うなら、知っていても知らないふりをすることが賢明な場面もあるのです。

なぜなら、そうすることで余計なトラブルを避けられるからです。

問題というのは、往々にして些細なきっかけから発展していきます。もし本当に相手を変えたい、伝えたいという想いがあるのなら、慎重に、冷静に、最善のタイミングで伝えるべきです。

だからこそ、「知らないふり」は処世術の一つとして善になり得ます。

ただし黙ってはいけない時もある

ただし、危機的状況や明らかな危険がある場合は別です。そういう場面で「知らないふり」をするのは、単に責任から逃げるか、調和を乱す行為でしかありません。

大切なのは、自分の慢心や正義感の押し付けを避けること。そして、人間関係の調和のために、時には「知らないふり」を選ぶという選択肢を持つこと。それが、現代社会を柔軟に生きるための一つの知恵なのだと私は思います。

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