人間の欲求とは泡のようなものかもしれない

今日は日々行っているニクセンの途中で起きた、一つの気付きについて書こうと思う。

私だけかどうか分からないが、私は常々何かを考えていることが多い。
これがしたい。あれが観たい。将来どうなるだろう。明日の天気は?
こんなことが常に頭の中を駆け巡っている。

しかし、今日はニクセン中にあの動画が観たい。と思ったが、
しばらく経つと、いつのまにか観ても観なくてもどうでもいい。
そう思っている自分がいることを深く自覚したことだった。

あぁさっきまでの高揚感は何だったんだろうと思ったが、
考えてみればニクセン中はよくこういうことが起きる。
衝動的な欲求とは時間が経つにつれ、少しずつ雲散してしまう。
その時、もしかして人間の欲求とは泡のようなものではないか
といったことが私の胸中に芽生えた。

しかし、これは些細なことだから起きるのであって、
現実はもっと厳しいはずだ。と思い、様々な考えを巡らせた。
生きていくには欲求が必要だ。動物としての欲求もそうだ。
最低限、食べる、眠る。これは満たさないと生きていけない。

しかしどうだろう。他の欲求に関しては些末なことではないか?
例えば欲望と恐怖についてだ。

私の欲望はゲームの運営をもう一度やってみたいことだ。
しかし、どうだ?それができなくても良いのではないだろうか?
恐怖についても同じだ。
将来に向けて十分な資産を持っておく必要があるのではないか?
しかし、必要最低限さえ満たされればそれでよいのではないだろうか。

人にとって究極の恐怖とは死だ。
生きていくことができない。これほど怖いことはない。
この最大の恐怖にさえ立ち向かう覚悟があれば何も問題ない。

私はこう深く思索することによって、人間の欲求とは泡のようなものであって、
さして重大な物では無い気がした。※ただこれは人によって異なるとは思う

私はあと何十年と生きなければならない。
その過程で必要なものも多いだろうし、欲しいものも多いだろう。
しかし、それが必要最低限しか得られない貧しい人生だったとして、
それで本当に不満足な結果になるかどうかは分からなかった。

しかし、なぜ今ここで困っていないことにビクビクしなくてはならないだろうか。
これは将来について何も考えずに無鉄砲に生きて良いと言っているわけではない。
自分の行動を変に変える必要はないということだ。私だったらずる賢く生きればいい。
そして、将来それで困ることになったらその時に考えて行動すればいい。
今ここで力む必要も怯える必要もない。
そう考えると将来に対する不安はどうでも良くなった。

私は色んなことを考えて不安になっても、
ニクセンのように、いずれどうでもよい、
と思える習慣を見つけることができて良かったと思う。

欲求を達成するには、達成することに拘らないで達成しようとする、
このニュートラルな心の状態が、一番成功を引き付ける気がした。

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