神仏を尊び、神仏に頼らず──信仰と自律の哲学

神仏を尊び、神仏に頼らず ― 信仰と自律の実践哲学

私たちの信仰心には、段階のようなものがあるのではないかと考えます。
これは特定の宗教に属しているかどうかに関わらず、人がどのように神仏と向き合っているかを示す基準です。
ここでは便宜的に、AからDまでの四段階に分けてみましょう。

  • A:神仏を日頃から尊び、辛い時にも神仏に頼らない
  • B:神仏を尊ばないが、辛い時にも頼らない
  • C:神仏を日頃から尊ぶが、辛い時には頼る
  • D:神仏を尊ばず、辛い時だけ頼る

Aの段階 ― 自律を伴う最高の信仰

「神仏を尊び、神仏に頼らず」とは、剣豪の言葉にもあるとおり、
人として最高の信仰心を持つ姿勢だといえます。

この境地は「人事を尽くして天命を待つ」という言葉で表すことができます。
自分にできることはすべてやりきり、そのうえで自然や神仏の働きに委ねる。
その人には依存や逃避の発想はなく、結果として神仏からの真の恩恵が+アルファとして加わるのです。

CやDに見られる依存の問題

一方で、多くの人はCやDの段階にとどまります。
日頃は神仏を大切にしつつも困った時だけ強く願ったり、
普段は無関心なのに危機の時だけ頼ろうとしたりするのです。

それは友人関係にたとえれば、必要な時だけ助けを求め、
平常時は顔を見せないようなものです。
こうした依存は本当の意味での信仰心を育てることにはなりません。

Bという選択肢

また、神仏を尊ばなくとも、自律心をもって現実に向き合う人もいます。
信仰を持たない人であっても、CやDの依存的な態度よりは確かに成熟した在り方といえるでしょう。

信仰心と自律心

ここで大切なのは、本物の信仰は自律と切り離せないという点です。
神仏を尊ぶとは、自分を律しながら日常を大切に生きることに他なりません。
困った時だけすがるのではなく、普段から自然や神仏を敬い、
そのうえで現実に自分の責任を果たす。

この姿勢こそが、信仰の成熟であり、実践哲学として私たちが学ぶべき態度だと思います。

まとめ

信仰の段階はいつからでも変えることができます。
すでに信仰を持つ方はAの段階を目指し、そうでなくとも自律を大切にするBを選ぶことができます。
大切なのは、依存を離れ、自分の力を尽くしたうえで自然や神仏を尊ぶことです。

そこにこそ、真の意味でのご利益が宿るのではないでしょうか。

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