無限が有限を生んだ理由 ― 大いなる存在の神話と私たち
この世界のはじまりには、「大いなる存在」がありました。
それは無限であり、すべてを内包する究極の存在です。
無限は完全であり、欠けるところのない状態です。
しかし、そこにはひとつの問題がありました。
――比較するものがないため、自らの完全さを知ることができないのです。
無限に長い紐も、他の長さと比べなければ、その“長さ”を測ることはできません。
無から有限を思いつくという奇跡
大いなる存在は考えました。
「部分は全体よりも小さい。ならば、その部分から全体を観察すれば、無限を知ることができるはずだ」と。
しかし、この発想は私たち人間には計り知れないほど困難なものでした。
なぜなら、大いなる存在は完全なる“無限”の中におり、
有限や部分という概念はどこにも存在していなかったからです。
ヒントも手がかりもない状態から、全く新しい存在の形を生み出さねばならなかったのです。
それは、究極のゼロから有限数を創り出すような、最も難解な創造でした。
それでも大いなる存在は、その発想を見事に成し遂げました。
こうして有限の世界が誕生し、比較と変化、違いと成長が可能になりました。
そして、大いなる存在は自らの無限を知る手がかりを得たのです。
人間の多様性は欠陥ではない
この世界の設計には重要な仕組みがあります。
それは、人間一人ひとりが異なる内部感覚(クオリア)と個性を持つことです。
100人いれば100通りの感じ方や考え方がある――これは欠陥ではなく、
全体を理解するために必要な“部分”の多様性です。
勝者と敗者、強者と弱者も、実は一つの全体を構成する両面に過ぎません。
片方だけを称え、もう片方を否定するのは、右手を褒めて左手を叩くようなものです。
部分は孤立しているように見えて、根本では全体とつながっています。
私たちは共同創造者
私たちの存在は偶然ではありません。
大いなる存在が有限を創造する過程で、私たちはその“役者”として誕生しました。
そして今も、私たちはその舞台で大いなる存在と共に世界を形づくっています。
存在すること自体が価値であり、
生まれた瞬間から、私たちはこの壮大な共同作業の一員なのです。
この神話が示すもの
この神話は、単なる物語ではありません。
私たちが互いの違いを受け入れ、全体の一部としての役割を果たすとき、
世界は本来の目的――無限を知るという使命――に近づきます。
この有限世界は、無限を体験するための究極のゲームです。
私たちは今、そのゲームの中を生きているのです。
まとめ
無限から有限が生まれたのは、大いなる存在が自らを知るため。
そして、そのために「部分」という発想を生み出したことこそ、計り知れない創造の偉業です。
だからこそ、私たちの多様性も、全体を完成させるための必然なのです。
互いの違いを恐れず、受け入れること――それが、大いなる存在への最大の敬意であり、
共に歩む“創造の道”なのです。