与える行為を“投資”として捉えるという発想
私たちはしばしば、「与える」という行為を道徳や優しさの文脈で語りがちです。
しかし私は最近になって、与える行為はむしろ投資行為の一種として理解したほうが、現実に即しているのではないかと感じています。
投資と聞くと利得や効率の話に思われるかもしれませんが、ここでは「人間関係や社会との関わり方における最適化」という意味で扱います。
その視点に立つと、従来の「無差別に与える」「誰にでも等しく善意を向ける」という発想は、実はかなり危険で、期待値的にも不利であることが見えてきます。
投資が上手くいかない理由は“投資先の誤選択”
投資の世界では、いくら誠実に努力しても、投資先を誤ればリターンは生まれません。
与える行為も同じで、返ってこない理由の多くは相手の性質とのミスマッチにあります。
– 奪うタイプの人
– 利用するだけの人
– 誠実性の低い人
– 短期的にしか物事を見ない人
こうした相手に善意を投じれば、返ってこないのは当然です。
これは道徳の問題ではなく期待値の問題です。
まずは“少数の安全資産”に与えるところから始める
ではどうすればいいのか。
答えは単純で、いきなり世界全体に無差別に与える必要はありません。
まずは、ごく少数の「返す可能性の高い相手」だけに小さく与えてみる。
これは最もリスクが低い方法です。
一種のテスト投資、あるいは試験的なサンプルと言えるでしょう。
そこから明らかに良い反応が得られるなら、その相手は「リターン率の高い相手」であり、
ここから初めて“投資枠を広げる”ことを考えればいいのです。
成功したら、少しずつスケールさせていく
成功した投資家は、最初から全財産を賭けるような真似はしません。
少しずつ成功体験を積みながら、ポートフォリオ(投資対象)を広げていきます。
与える行為も同じで、
– 一人 → 三人 → 五人
– 単発の行動 → 継続的支援
– 私的範囲 → 公的範囲
このように、段階的に拡張していくのが最も合理的です。
これは精神論ではなく、純粋にリスク管理と期待値最大化の考え方に近いと言えます。
返ってくるのは「同じ相手」ではなく、別のルートで返る
現代はネットワーク化が極端に進んだ社会構造です。
そのため、与えた善意はしばしば全く別のルートから返ってくるようになっています。
– Aに与えた善意が、Bを通してCから返る
– 第三者がその行動を見ていて、全く別のところで恩恵が発生する
– 信用資本として蓄積され、時間差で利益になる
この構造は綺麗事ではなく、現代の情報環境そのものによって成立しています。
最終的に“無差別に近い与え”へと移行する
興味深いのは、最初は「選別して与える」段階から始まるにもかかわらず、
成功体験が積み重なると、自然と“与える範囲が広がる”という現象が起きる
という点です。
これは精神の成長というより、
成功する投資家が投資先を広げるように、
人間関係における「信頼の耐性」が上がるためです。
結果として、かつて「無差別に与えていた頃」と似た状態に戻ることがあっても、
その時のあなたは、以前の“脆い無差別”ではなく、
選別と理解を経た“強い無差別”になっています。
与えることとは、期待値の最適化である
– 与える行為を投資として捉える
– 返ってこないのは投資先のミスマッチ
– 最初はごく少数に小さく与える
– 成功体験に応じて範囲を拡大する
– 現代は返りが別ルートで起きる構造
– 最終的には強い広域的な与えへと移行していく
この見方は、「与える=綺麗事」という印象を取り払い、
現代社会における合理的な生存戦略としても成立します。
私自身この構造を理解したことで、
与える行為の扱い方が以前より明確になりました。
そして、どこにどう与えるかという選別が、
実は人間の精神的消耗を避け、期待値を最大化する道であることを実感しています。
荒れ果てた場所にこそ潜在的な価値がある視点
与える行為を投資として捉えるなら、最も興味深い点は、
「荒れ果てた場所ほど、潜在的価値が大きい」という逆説的な事実です。
誰も近づかず、誰も注目しない領域は、表面的にはリスクが高く見えます。
しかし投資の基本に従えば、割安であるということは、
成功した時のリターンの倍率が極めて大きいという意味でもあります。
この視点に立つと、与える行為は単なる善意ではなく、
「恐れ」ではなく「計算」によって広げられる行動へと変質していきます。
最初は慎重な選別から始まり、やがて経験が蓄積するほど、
投資先の範囲は自然と広がり、
最終的には、無差別に近い与えさえも期待値的に成立し得る。
これは理想論ではなく、構造の必然です。
与奪の法則の本質は、「与えることは損ではない」という慰めではなく、
「与えるほうが長期的に強い」という、計算可能な事実にあります。