この世界に起こるあらゆる出来事には、100人いれば100通りの見方があります。
つまり、100人の人間がいれば、100通りの「真実」が存在しているということです。
善悪や正邪は、人によって変わる
善悪や正邪といった観念は、一見すると普遍的なものに思えます。
確かに、大まかには社会の中で共有される部分もあるかもしれません。
しかしそれらは、育ってきた環境や文化、個々の経験によって、実際にはかなりばらつきがあるものです。
つまり、「当たり前の善悪」や「正しい正義」は、決して絶対的なものではありません。
それは本当に、自分の考えか?
多くの人は「これは善」「これは悪」と判断するとき、
本当に自分の頭で考え抜いた上で結論を出しているでしょうか?
多くの場合──
・世間がそう言っているから
・本にそう書いてあったから
・周囲が皆そうしているから
そんなふうに、ある種惰性的に思考停止して判断していることが多いのではないでしょうか。
善悪よりも「役に立つか」で考える
善悪や正邪は、案外移ろいやすいもので、絶対的な指標にはなりえません。
だからこそ、新しい思考や価値観を前にしたときには、
それが「善か悪か」ではなく──
「自分にとって、これは役に立つか?」
そういった視点で判断する方が、ずっと建設的で主体的です。
合わない価値観は、手放せばいい
もしある考え方が、どうしても自分には合わない、納得できないと感じるなら、
それは無理に取り入れる必要はありません。
特に「周囲がそう言っているから」という理由だけで受け入れることは、
自分にとって大きなストレスになることすらあります。
ですからこのブログに書いてあることにしても──
あなたが読んで「これは合わない」と思う部分は、迷わず捨ててしまって構わないのです。
逆に「これは自分に合っている」と感じた部分だけを、取り入れてもらえればそれで十分です。
多様な時代に必要なのは、ゆるやかな許容
今の時代は、昔よりもずっと多様な価値観が並び立つようになりました。
そうした中で大切なのは、他人の価値観を否定せず、許容するという姿勢だと思います。
「アイツの考えは間違ってる。正してやらなければ」
そういった攻撃的な姿勢は、ますます分断を深めるだけです。
たとえ自分から見てそれが「100%間違っている」と感じたとしても、
そこに踏み込むかどうかは、慎重であるべきです。
「それで幸せなら、それでいい」
「あいつは不幸そうに見えるけど、本人が幸せならまぁそれでいいか」
──そんな、少し距離を置いたような、でも相手を認める姿勢。
こういった“見放しのような許容”も、これからの社会に必要な優しさだと思うのです。